治水(水塚・揚舟)

江戸時代から受け継がれる「みずまて」の文化

 生井地区は栃木県の中で最も低い土地で、洪水の際は渡良瀬川から利根川本流への流れが悪くなり、それが生井地区の東西に流れる思川(おもいがわ)と巴波川(うずまがわ)へと影響を及ぼし、度重なる洪水被害に昔から悩まされてきました。そのため、この地域には昔から「みずまて」という水害への知恵や工夫が受け継がれてきました。その中で特徴的なものが「水塚」と「揚舟」です。

水塚・揚舟の分布図
水塚・揚舟の分布図
利根川東遷の図(出典:『渡良瀬遊水地谷中メモリアル100』
利根川東遷の図(出典:『渡良瀬遊水地谷中メモリアル100』

治水の歴史

 

徳川家康が1590年に江戸に入府した後、江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川を銚子まで付け替えする「東遷事業」が行われました。これによって渡良瀬川は、利根川の支流になり、利根川との合流地点付近のでは、利根川より渡良瀬川のほうが勾配が緩かったために生井地区周辺に水が滞流し、ある時は利根川から逆流するなど、水害に悩まされてきました。

水塚(白鳥)
水塚(白鳥)

水塚(みつか)

 

生井地区は、昔から水害の多い土地であったために白鳥に見られる輪中堤防や、下生井にある自然堤防の上の集落、あるいは人工的な塚(水塚)など、水害から身を守る工夫がなされています。

揚舟(白鳥)
揚舟(白鳥)

揚舟(あげぶね)

 

揚舟は、漁をするための舟と違い、水害時の移動手段を目的とした舟のため、船底の浅い構造になっています。平常時は、納屋などの天井に吊り下げて保管されています。

渡良瀬遊水地
渡良瀬遊水地

渡良瀬遊水地

 

渡良瀬遊水地は、生井地区の南西に広がる周囲を堤防や大地で囲まれている洪水対策によって造られた調節池。利根川に合流する渡良瀬川、巴波川、思川の3河川が洪水時に越流堤からこの調整池内に流入する構造になっており、貯水容量は、2,640万立法キロメートル。周囲の長さが約30キロメートル、面積約33平方キロメートル、栃木・茨城・群馬・埼玉の4県4市2町にまたがる低層湿原。約15平方キロメートル(約半分)にヨシが繁茂しています。

思川の舟運について

 

慶長5年(1600年)、下野国小山に本陣を置いていた徳川家康は、会津から反転西上して石田三成を討つことを決めました。これが世に言う「小山評定」です。家康は、小山から関ヶ原に向かう際、この乙女河岸から多数の兵馬を本河岸で荷積みし舟運にて運搬したと言われています。その後も江戸と直結する物資の重要な輸送路、物流の大動脈として盛んに利用され、高瀬舟が行き来していました。